2009年05月20日
ヒトは何故ヒト?
ってのを卒論考えてて思いました。
卒論は、「ペット」の葬儀を通して、現代の家族について考察する。
つまり、「ペット」が現在の家族に対してどのような役割にあり、ポジションについているか
ということを、「ペット」の葬儀を通して考察してみようということ。
でも、考えてみれば、「ペット」=「家族」として、表象されることが多い。
その概念以前に、「ペット」の人格化がなされているのではないだろうかって思った。
まあ、当たり前といえばそうんなんだけど、言い方を変えれば、
以前は「ヒト」ではないとされていたモノが、「ヒト」として認識され始めたということ。
つまり、境界が消えつつある。
では、その「境界」はいったい何に依拠して成立していたのか。
つまり、「ヒト」は何をもって、「ヒト以外のモノ」と区別してきたのか。
現在、ヒト‐ペット間の「境界」が揺らいでいるとすれば、どうしてなのか。
とかとか、考え付いた。
きっと、難しすぎてまとまりきれないことは、よーくわかってるけどね。
そのあたり、すこしかすりでも出来たらなーって、野心を抱いてしまうわけです。
無理かな?
卒論は、「ペット」の葬儀を通して、現代の家族について考察する。
つまり、「ペット」が現在の家族に対してどのような役割にあり、ポジションについているか
ということを、「ペット」の葬儀を通して考察してみようということ。
でも、考えてみれば、「ペット」=「家族」として、表象されることが多い。
その概念以前に、「ペット」の人格化がなされているのではないだろうかって思った。
まあ、当たり前といえばそうんなんだけど、言い方を変えれば、
以前は「ヒト」ではないとされていたモノが、「ヒト」として認識され始めたということ。
つまり、境界が消えつつある。
では、その「境界」はいったい何に依拠して成立していたのか。
つまり、「ヒト」は何をもって、「ヒト以外のモノ」と区別してきたのか。
現在、ヒト‐ペット間の「境界」が揺らいでいるとすれば、どうしてなのか。
とかとか、考え付いた。
きっと、難しすぎてまとまりきれないことは、よーくわかってるけどね。
そのあたり、すこしかすりでも出来たらなーって、野心を抱いてしまうわけです。
無理かな?
Posted by ec at 14:08│Comments(0)
│インテリぶって書いたもの